儀式が始まろうというこの大切な瞬間でさえ、カイルの存在はリノアの心をかき乱す。 その鋭い視線に縛られるように、リノアはその場に立ち尽くした。 カイルは自然を軽んじ、村の伝統に対して無頓着な男だ。その態度は昔から私たちに不信感を抱かせていた。シオンの死や森の異変についても、彼が何かを知っているのではないかという思いが私やエレナの中に根強く残っている。 あのカイルの態度……。間違いない。カイルは何かを知っている。 昨夜のカイルの言葉が不気味な残響となって脳裏に蘇る。「死の直前、シオンは森で誰かと会っていた」 リノアの胸の内で一つの結論が形を成した。シオンは誰かに殺されたのだと。 村人たちがゆっくりと祭壇の周りに集まり始め、厳かな雰囲気に包まれた。 子供たちは母親のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、若者たちは一つに固まり身を寄せ合っている。不安な表情を見せていないのは老人くらいなものだ。 老人たちは杖を地面に突き、どっしりとした姿勢で祭壇を見守っている。彼らの視線は、どこか揺るぎない信念を映し出していた。 背中に集まる無数の視線を感じながら、リノアは祭壇に目を落とした。 例年なら、ここでの儀式は自然への感謝を捧げるものだった。だが今年は違う。シオンの死が村に暗い影を落とし、森の異変が人々の心をざわつかせている。 村の長であるクラウディアが、ゆっくりと杖をつきながら祭壇に向かった。霧が白髪をかすかに濡らし、深く刻まれた皺が長い年月を思わせる。一歩、歩く度に杖が床を叩く音が響き渡り、広場を覆う静けさを一層引き締めた。 クラウディアの目はどこか遠くを見つめ、厳粛な空気をまとっている。その威厳に満ちた姿に村人の視線が自然と吸い寄せられた。 祭壇の前で立ち止まったクラウディアは、杖を強く地面に突いた後、村人たちを見回した。「皆、集まってくれたことに感謝する。自然は我々を育み、守ってきた。その恩恵に感謝し、共に森を守り、大地と調和して生きることを誓おう。今日、我々は自然に祈りを捧げ、森の恵みを願う」 クラウディアの声は低く、霧に溶けるように広がっていき、周囲からざわめきを消し去った。静寂が広場を支配する。 リノアはクラウディアの隣に立ち、青銅の器を見下ろした。器の水面が微かに揺れ、朝陽の光が彼女の目に鋭く差し込む。 シオンの死後、クラウディアから
リノアはエレナを探しながら集団に目を走らせ、村人たちの表情を一人ひとり観察した。顔の表情で大体、察しは付く。 私たちのことを良く思っていない人たちは、頬を上げて笑っているように見せていても目は笑っていない。 エレナは広場の端に立っていた。その落ち着いた姿は不思議と彼女を周囲から浮き上がらせる。喧騒の中でもエレナの存在だけが際立ち、時間がエレナの周りだけ遅れて流れているかのように見える。 若者がエレナに近づき、耳元に顔を近づけた。儀式に参加するという予想外の知らせを聞いたエレナは一体、どのような反応を示すのだろうか。 リノアはその様子を見つめながら、役割を託された日のことを思い出していた。私にその役割を担う力があるのか、村人たちの期待を裏切ることになるのではないか。不安が胸を締め付けた。 一瞬、驚きの表情を見せたエレナは、すぐにこちらをまっすぐに見つめ返し、静かに、そして力強く頷いた。揺るぎない覚悟が垣間見える。 リノアはクラウディアの横顔に目を向けた。この村に何か大きな危険が迫っていることをクラウディアは既に察しているのだろう。きっと私たちの為を思っての行動だ。一人より二人の方が安全だと思って……。 エレナが近づいてくる間、リノアは祭壇の前で佇みながら、村人たちの視線を背中に感じた。ざわめきが背後で広がり、断片的な声が耳に届く。「あの二人がシオンの代わりか……」 その声は疑念と不信が入り混じったものだ。中には蔑んだ目を向ける者もいる。 エレナが隣に立ち、リノアはエレナと視線を交わした後、正面を向いた。そのわずかな仕草だけで、心の奥底で意思が通じ合っていることが感じ取れる。言葉は必要ではない。 肌に貼りつく感覚を覚える中、リノアは手に力を込めた。これから二人で村を守って行かなければならない。 村人たちのざわめきが次第に強まり、広場を覆い始める。「シオンが死んでから森がおかしくなったんだ。何かの呪いじゃないのか?」「森が弱ってるって聞いたが、本当なのか? 木が枯れるなんて聞いたことがないぞ」 村人たちの不安が波のように広がり、次第に動揺へと変わった。 それでもリノアとエレナは祭壇の前にまっすぐ立ち、揺るぎない視線を前方に向け続けた。私たちが動揺するわけにはいかない。 村人たちのざわめきが風のように流れる中、リノアとエレナの立ち姿が、
村人たちのざわめきがやがて風の音のように薄れ始め、やがて静けさが広場に満ちると、リノアはゆっくりと小さな布包みを取り出した。包みを解く手が微かに震えている。 そこに現れたのは一粒の種子だ。それは森で見つけた不思議な種子とは異なり、淡く光るわけでもなければ、熱を帯びるわけでもない。 祭壇に捧げるための素朴な種子だ。その素朴さが儀式の長い伝統と村の歴史を象徴している。 リノアは種子をそっと摘んで、水が張られた青銅の器へと落とした。器の水面に静かな波紋が広がり、水が微かに揺れる。太陽の光がその波紋に反射し、祭壇の周りに小さな光の輪を作り出した。 息を呑んで見守る村人たち。静けさが辺りを包み込んでいく。 水面に浮かぶ種子を見つめながら、リノアはシオンの言葉を思い出した。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが、誤れば破壊を招く」 この言葉が指す意味は何なのか。私たちはそれを知らなければならない。 クラウディアが杖を地面に突き、低く厳かな声で祈りを始めた。「自然よ、我々に恵みを。森よ、我々を守り給え。古の力よ、我々に力を」 クラウディアの声が広場に響き渡り、村人たちが次々に手を合わせ、祈りの言葉を口にした。 その場の空気は緊張と期待に満ち、何か大きな変化が訪れようとしている感覚を漂わせている。 リノアとエレナも目を閉じて祈りを捧げた。二人の祈りの言葉が風に溶け、村人の祈りと重なり合う。 私たちを良く思ってくれている人たちもいる。私は一人ではない。 リノアは目を開け、祭壇の前で背筋を伸ばし、正面を見据えた。 クラウディアが二人を見つめ、杖を地面に突いて言った。「儀式を終えよう。リノア、エレナ。誓いの言葉を」 リノアは深く息を吸い込み、エレナと呼吸を合わせ、一緒に言葉を紡いだ。「我らは誓う。自然への敬意を忘れず、この村と森を守り抜くことを。先人たちの想いを受け継ぎ、未来に光を繋げます」 その声が静けさに満ちた広場に響き渡る中、村人たちは一斉にこうべを垂れた。 その仕草は儀式への敬意が感じられる。しかし、それは表向きの姿であり、本心は別にある。心の奥底に潜む疑念は、そう簡単には拭いきれるものではない。 静寂の中、風がそっと吹き抜け、朝霧がゆっくりと薄れて行った。霧が広場を低く漂いながら動き、周囲の木々がその風に応じてかすかに揺れる。
リノアは幼い頃、初めて自然の声を聞いた。それは母親と一緒に森を訪れた日のことだった。森の奥深く、陽光が木々の隙間から柔らかく差し込む場所で、リノアの母はリノアの手を引きながら歩いていた。「リノア、ここで少し待っていて。お母さんが戻るまで動かないでね」 母の声は優しかったが、どこか切迫した響きを帯びていた。母はリノアを太古から存在するオークの木の根元に座らせ、膝に手を置いて微笑んだ。「お母さん、どこに行くの?」 リノアが尋ねると、母は首を振って答えた。「すぐ戻るから、ここで待っていて。約束だよ」 そう言って、母はリノアに背を向け、木々の間へ消えていった。背中が遠ざかるにつれ、リノアの小さな胸に不安の波が寄せ始めた。 リノアはその言葉を守り、静かに待ち続けた。 太陽が少しずつ傾き、森に長い影が伸び始める。オークの木の根はごつごつしており、苔の柔らかな感触が彼女の手をくすぐった。 鳥のさえずりが遠くに聞こえ、心地よく感じる。しかし母が戻って来ないことで、リノアの心の中に不安の感情が芽生え始めた。「お母さん、どこ?」 リノアが小さな声でつぶやく。 涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえながら、リノアは周囲を見回した。森は静かで、ただ風が木々を揺らす音だけが響いている。母の気配はない。「お母さん!」 我慢しきれず、リノアは立ち上がり、母が消えた方向へ駆け出そうとした。その瞬間、耳元で声が響いた。 「リノア。まだ、ここにいた方がいいよ」 驚いたリノアは足を止め、辺りを見回した。「誰?」 姿が見えない。風の音と川のせせらぎなど、自然の音だけが聞こえる。 聞いたことのない声だ。だけど温かくて、どこか懐かしい響きがする。「もう少しだけ、ここにいて」 声が再び森に響き渡った。姿は見えないが、確かにそこにいる。リノアは目を細めて周囲を見回したが、やはり何も見つけることはできなかった。「どうして? お母さんのところに行きたい」 リノアが訴えると、声は静かに答えた。「ここにいたら安全だから。僕たちが君を守ってあげる。お母さんも心配しなくて良いよ」 その言葉にリノアは不思議な安心感を覚え、彼女は再びオークの根元に座り込んだ。 目の前には小さな川が流れ、水面が陽光を反射してキラキラと輝いている。 リノアは手を伸ばし、水にそっと触れた。ひ
「何、あれ?」 リノアは立ち上がって、目を凝らした。 何が起きているのか分からず、リノアは遠くに見える孔雀のように美しく燃える炎を見つめていた。 火の粉が空高く舞い上がる。やがて、その一部が森の木に飛び移ると、次から次へと炎が燃え広がり、見渡す限り一面の炎となった。 木々の隙間から熱風が吹き込んでくる。周辺の木々が一つ、また一つと炎に包まれ、リオナの逃げ道を狭めていく。 炎と煙の壁がそびえ立ち、それらがゆっくりと近づいてくる……。「熱いよ……」 リノアは動くことができなかった。煙で息が苦しくなり、熱が肌を焼く。恐怖が彼女の心を支配した。「お母さん……助けて……」 小さな声で呟くが、誰も助けに来てくれない。「お母さん……」 諦めそうになった瞬間、再びあの声が聞こえた。「大丈夫だよ、リノア。僕たちがいるから」 突然、強風が吹き荒れ、炎が龍のように渦を巻いて上空へ舞い上がった。 空が暗くなり、大粒の雨が大地を叩く。「あっ、雨だ!」 まるで自然がリノアを守るかのように雨が彼女を包み込んだ。 炎が消え、煙が薄れていく。濡れた髪が頬に張り付き、リノアはその場に呆然と立ち尽くした。「リノア、僕たちを感じて。僕たちもリノアと共にあるから。その気持ちを忘れないで」 声が優しく心に響いた。 リノアは心の中でその言葉を繰り返し、そして言葉を発した。「うん、わかった」「でも気をつけて。僕たちの声が届かなくなる時が来るかもしれないから」 風がリノアの髪を撫で、そっと飛び去った。 リノアは母の言いつけの通り、母が戻って来るのを待ち続けた。しかし太陽が沈み、森が闇に包まれても母が戻って来ることはなかった。「どこに行ったんだろう……」 リノアは膝を抱え、オークの木にもたれかかった。リノアの呟きは風に溶け、自然の音だけが静かに寄り添った。
リノアの人生は、あの森の火災から大きく変わった。彼女は自然と深く結びついていた幼少期の記憶を胸に日々を過ごしていた。 木の窓から差し込む陽光がリノアの小さな部屋を優しく照らし出す。 村の外れに立つこの家は、母と暮らした思い出深い場所だ。今はリノア一人で住んでいる。 壁に掛かった古びた織物や床に散らばる干し草の匂いが、過去の記憶を静かに呼び起こす。だが、その記憶はいつも途中で途切れてしまっていた。母が森で消えたあの日の情景で、いつも止まってしまうのだ。 母が森で消えたあの日の記憶は、いつも霞がかかったように曖昧だ。その記憶の断片に触れるたび、まるで目の前に現れる扉が突然閉じられるように、心の奥底で何かが引き裂かれる。 あの母の柔らかな笑顔と森の風の香り——そこから先を思い出そうとすると、心の中に冷たい静寂が広がってくる。 リノアはベッドから起き上がり、窓の外を眺めた。 朝の光が村の屋根を金色に染め、遠くからは井戸端の笑い声と手押し車のきしむ音が聞こえる。風に乗って運ばれてくるパンを焼く香ばしい匂いが、リノアの記憶をさらに揺さぶった。しかし、それでも「今」と「過去」の間に横たわる深い溝を埋めることはできない。 リノアは水瓶から水を汲み取り、その冷たさを喉で感じた。喉を滑る水の感触が森の奥を流れる小川の冷たさを思い出させる。 リノアは目を閉じて、その味に一瞬だけ母の笑顔を重ねた。 今日もまた、村での一日が始まる。 リノアは麻の服を身にまとい、手早く髪を後ろで束ねた。母親がいた頃は、いつも小さな手鏡を使ってリノアの髪を整えてくれた。その微笑みと優しい手の感触は今でも忘れることができない。しかし今はもう、そのような贅沢は許されない。 リノアは部屋の隅に置かれた籠を手に取り、扉を開けて外へ出た。 森に囲まれた小さな集落は、木々の緑に包まれ、家々は自然の一部となって息づいている。苔むした屋根は雨と時の流れを物語り、壁を這う蔦が生命の逞しさを表していた。 村人たちはそれぞれの朝の仕事に取りかかっている。 鍛冶屋のカイルが炉の火を赤々と燃やし、その煙が空の青に溶け込んでいる。その光景の先には、杖を頼りに歩く年老いたクラウディアと、いつものように馬の手綱をさばくレオの姿が見える。レオの手際はすっかり板についているようだ。 皆がそれぞれの役割を果たし、
村の広場に足を踏み入れたリノアの目に、不意に小さな物が飛び込んできた。それはシオンの形見だった。広場の端に立つ古い木の根元に、ひっそりと置かれた小さな笛。素朴な木彫りの装飾が施されている。シオンの手作りの笛だ。誰かがそこに供えたのだろう。シオンは幾つも笛を作っていた。 リノアは思わず足を止め、笛を凝視した。胸が締め付けられるような痛みが波のように押し寄せる。 リノアにとってシオンは兄のような存在だった。血は繋がっていなかったが、幼い日々を共に過ごし、母が姿を消してからも、いつもそばにいてくれた唯一の人だった。その優しさと力強さが、リノアの小さな世界を支えていた。 だが、それも今は失われた。つい先日、シオンは突然の事故で命を落としたのだ。悲しみと喪失感が、まるで深い霧のようにリノアの心を覆い尽くしている。 村人たちは「森での落石に巻き込まれた」と口々に言う。 リノアもそう信じていた。最初のうちは…… リノアはそっと笛を手に取り、その滑らかな木の感触を指先で確かめた。冷たい木の表面が、どこか彼のぬくもりをまだ宿しているように思える。 シオンが亡くなったなんて、まだ実感として理解することはできない。 シオンがこの笛を彫り上げた日を鮮明に覚えている。彼は笑みを浮かべながら、ふざけた調子で言ったのだ。 「リノア、これを吹けば、どんな遠くにいても僕はすぐに駆け付けるよ」 リノアは笛を胸に抱き、そっと目を閉じた。心に広がるのは冷たく重い孤独。もうシオンはこの世にいない。笛を吹いても、彼の姿も声も戻ってくることはないのだ。 シオンを失った今、リノアは本当の意味で天涯孤独の身になったのだと実感した。 「リノア、おはよう」 柔らかな声に反応し振り返ると、そこにエレナの姿があった。 エレナはシオンの恋人、村の薬師見習いでもある。少し年上の彼女は、穏やかな瞳と落ち着いた雰囲気が印象的だが、その内面には芯の強さが宿っているのを、リノアは知っていた。「おはよう、エレナ」 リノアは笛をそっと元の場所に戻し、微笑みを返した。その微笑みがぎこちないことにエレナは気づいたようだったが、彼女は何も言わずに寄り添うように隣に立った。「今日も森へ行くの?」 「うん。もちろん」「気をつけてね。最近、森が落ち着かない感じがするから」 エレナの声には心配の色が滲ん
リノアはエレナに別れを告げると、森への道を一人歩き始めた。 村の喧騒が遠ざかり、木々の影が彼女を包む。 籠を握るリノアの手がほんの僅かに震えている。それは寒さのせいではない。母が消え、シオンを失い、一人でこの村で生活する寂しさが心に重くのしかかっているからだ。 幼かった頃に聞いた、あの自然の声が再び聞こえることを、リオナはどこかで期待していた。それが何を意味するのか、どうして私に聞くことができたのか、それがどうしても知りたかった。 リノアは村の外れに広がる森の入り口に立った。 木々の間から吹く風がリノアの頬を撫で、かすかな湿った土の匂いが鼻をくすぐる。リノアは深呼吸し、籠を肩にかけるとゆっくりと一歩を踏み出した。 足元の草が柔らかく沈み、靴底に小さな土の粒が付着する。 森の姿は、いつもと何一つ変わらないように見えた。高くそびえる木々の緑、鳥たちの影、そして淡い光が差し込む薄暗い道。しかしリノアの心には何か引っかかるものがあった。 風の音は高く、耳をかすめるように響き、木々のざわめきにはいつもより鋭さが感じられる。 リノアは母親から教わった道をたどり、薬草の生える場所へ向かった。 木々が密集するその奥には、傷を癒すカミツレや熱を下げるヨモギが静かに息づいている。まるで母の手ほどきを再び受けるような気持ちで、リノアは木々の間を縫うように進んだ。 頭上の枝葉が風に揺れ、陽光がまだら模様を描きながら地面に降り注ぐ。時折、小鳥が飛び立つ羽音が森の静寂を破った。 その瞬間、心にわずかな緊張が走った。森は時として優しく、そして無情だ。リノアは身構え、そして耳を澄ました。 森に流れる音の中に、かつて聞いた自然の声が混ざっていないかと期待したが、耳に届くのは風のささやきと小鳥たちのさえずりだけだった。 あの幼い日に聞いた優しく包み込むような声が、今は遠いものに感じられる。
村人たちのざわめきがやがて風の音のように薄れ始め、やがて静けさが広場に満ちると、リノアはゆっくりと小さな布包みを取り出した。包みを解く手が微かに震えている。 そこに現れたのは一粒の種子だ。それは森で見つけた不思議な種子とは異なり、淡く光るわけでもなければ、熱を帯びるわけでもない。 祭壇に捧げるための素朴な種子だ。その素朴さが儀式の長い伝統と村の歴史を象徴している。 リノアは種子をそっと摘んで、水が張られた青銅の器へと落とした。器の水面に静かな波紋が広がり、水が微かに揺れる。太陽の光がその波紋に反射し、祭壇の周りに小さな光の輪を作り出した。 息を呑んで見守る村人たち。静けさが辺りを包み込んでいく。 水面に浮かぶ種子を見つめながら、リノアはシオンの言葉を思い出した。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが、誤れば破壊を招く」 この言葉が指す意味は何なのか。私たちはそれを知らなければならない。 クラウディアが杖を地面に突き、低く厳かな声で祈りを始めた。「自然よ、我々に恵みを。森よ、我々を守り給え。古の力よ、我々に力を」 クラウディアの声が広場に響き渡り、村人たちが次々に手を合わせ、祈りの言葉を口にした。 その場の空気は緊張と期待に満ち、何か大きな変化が訪れようとしている感覚を漂わせている。 リノアとエレナも目を閉じて祈りを捧げた。二人の祈りの言葉が風に溶け、村人の祈りと重なり合う。 私たちを良く思ってくれている人たちもいる。私は一人ではない。 リノアは目を開け、祭壇の前で背筋を伸ばし、正面を見据えた。 クラウディアが二人を見つめ、杖を地面に突いて言った。「儀式を終えよう。リノア、エレナ。誓いの言葉を」 リノアは深く息を吸い込み、エレナと呼吸を合わせ、一緒に言葉を紡いだ。「我らは誓う。自然への敬意を忘れず、この村と森を守り抜くことを。先人たちの想いを受け継ぎ、未来に光を繋げます」 その声が静けさに満ちた広場に響き渡る中、村人たちは一斉にこうべを垂れた。 その仕草は儀式への敬意が感じられる。しかし、それは表向きの姿であり、本心は別にある。心の奥底に潜む疑念は、そう簡単には拭いきれるものではない。 静寂の中、風がそっと吹き抜け、朝霧がゆっくりと薄れて行った。霧が広場を低く漂いながら動き、周囲の木々がその風に応じてかすかに揺れる。
リノアはエレナを探しながら集団に目を走らせ、村人たちの表情を一人ひとり観察した。顔の表情で大体、察しは付く。 私たちのことを良く思っていない人たちは、頬を上げて笑っているように見せていても目は笑っていない。 エレナは広場の端に立っていた。その落ち着いた姿は不思議と彼女を周囲から浮き上がらせる。喧騒の中でもエレナの存在だけが際立ち、時間がエレナの周りだけ遅れて流れているかのように見える。 若者がエレナに近づき、耳元に顔を近づけた。儀式に参加するという予想外の知らせを聞いたエレナは一体、どのような反応を示すのだろうか。 リノアはその様子を見つめながら、役割を託された日のことを思い出していた。私にその役割を担う力があるのか、村人たちの期待を裏切ることになるのではないか。不安が胸を締め付けた。 一瞬、驚きの表情を見せたエレナは、すぐにこちらをまっすぐに見つめ返し、静かに、そして力強く頷いた。揺るぎない覚悟が垣間見える。 リノアはクラウディアの横顔に目を向けた。この村に何か大きな危険が迫っていることをクラウディアは既に察しているのだろう。きっと私たちの為を思っての行動だ。一人より二人の方が安全だと思って……。 エレナが近づいてくる間、リノアは祭壇の前で佇みながら、村人たちの視線を背中に感じた。ざわめきが背後で広がり、断片的な声が耳に届く。「あの二人がシオンの代わりか……」 その声は疑念と不信が入り混じったものだ。中には蔑んだ目を向ける者もいる。 エレナが隣に立ち、リノアはエレナと視線を交わした後、正面を向いた。そのわずかな仕草だけで、心の奥底で意思が通じ合っていることが感じ取れる。言葉は必要ではない。 肌に貼りつく感覚を覚える中、リノアは手に力を込めた。これから二人で村を守って行かなければならない。 村人たちのざわめきが次第に強まり、広場を覆い始める。「シオンが死んでから森がおかしくなったんだ。何かの呪いじゃないのか?」「森が弱ってるって聞いたが、本当なのか? 木が枯れるなんて聞いたことがないぞ」 村人たちの不安が波のように広がり、次第に動揺へと変わった。 それでもリノアとエレナは祭壇の前にまっすぐ立ち、揺るぎない視線を前方に向け続けた。私たちが動揺するわけにはいかない。 村人たちのざわめきが風のように流れる中、リノアとエレナの立ち姿が、
儀式が始まろうというこの大切な瞬間でさえ、カイルの存在はリノアの心をかき乱す。 その鋭い視線に縛られるように、リノアはその場に立ち尽くした。 カイルは自然を軽んじ、村の伝統に対して無頓着な男だ。その態度は昔から私たちに不信感を抱かせていた。シオンの死や森の異変についても、彼が何かを知っているのではないかという思いが私やエレナの中に根強く残っている。 あのカイルの態度……。間違いない。カイルは何かを知っている。 昨夜のカイルの言葉が不気味な残響となって脳裏に蘇る。「死の直前、シオンは森で誰かと会っていた」 リノアの胸の内で一つの結論が形を成した。シオンは誰かに殺されたのだと。 村人たちがゆっくりと祭壇の周りに集まり始め、厳かな雰囲気に包まれた。 子供たちは母親のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、若者たちは一つに固まり身を寄せ合っている。不安な表情を見せていないのは老人くらいなものだ。 老人たちは杖を地面に突き、どっしりとした姿勢で祭壇を見守っている。彼らの視線は、どこか揺るぎない信念を映し出していた。 背中に集まる無数の視線を感じながら、リノアは祭壇に目を落とした。 例年なら、ここでの儀式は自然への感謝を捧げるものだった。だが今年は違う。シオンの死が村に暗い影を落とし、森の異変が人々の心をざわつかせている。 村の長であるクラウディアが、ゆっくりと杖をつきながら祭壇に向かった。霧が白髪をかすかに濡らし、深く刻まれた皺が長い年月を思わせる。一歩、歩く度に杖が床を叩く音が響き渡り、広場を覆う静けさを一層引き締めた。 クラウディアの目はどこか遠くを見つめ、厳粛な空気をまとっている。その威厳に満ちた姿に村人の視線が自然と吸い寄せられた。 祭壇の前で立ち止まったクラウディアは、杖を強く地面に突いた後、村人たちを見回した。「皆、集まってくれたことに感謝する。自然は我々を育み、守ってきた。その恩恵に感謝し、共に森を守り、大地と調和して生きることを誓おう。今日、我々は自然に祈りを捧げ、森の恵みを願う」 クラウディアの声は低く、霧に溶けるように広がっていき、周囲からざわめきを消し去った。静寂が広場を支配する。 リノアはクラウディアの隣に立ち、青銅の器を見下ろした。器の水面が微かに揺れ、朝陽の光が彼女の目に鋭く差し込む。 シオンの死後、クラウディアから
リノアは村の広場に集まった人々の中、静かに立ち尽くしていた。朝霧が地面を覆い、湿った土の匂いが鼻腔を満たす。足元の草は冷たく、粗末な靴に水滴が染み込んで彼女の足を冷やしていた。 空はまだ薄暗く、朝陽が霧の向こうでぼんやりと輪郭を描いている。 広場の中央には、儀式のための祭壇が設けられていた。太いオークの枝が円形に組まれ、その内側に平たい石が積み上げられた簡素なものだ。だが、その素朴さの中にも、長い年月を経た重みが感じられた。 祭壇の頂上には、先祖代々受け継がれてきた青銅の器が置かれている。器は古びて緑青が浮いており、表面には龍が空を舞う姿や星々が連なる模様など、細かな彫刻が施されている。 リノアはその器を見つめ、シオンの不在に心を痛めた。この儀式を行うのは、いつもシオンだった。シオンが村人たちの前で自然との絆を呼び起こす姿が思い起こされる。 リノアは深く息を仕込み、祭壇に目を移した。 器の縁から微かな水滴が、ぽつりぽつりと落ち、祭壇の冷たい石を静かに濡らしている。その音が張り詰めた空気の中に小さな波紋を生むようだった。 祭壇の上に置かれた器には澄み切った水が並々と張られ、朝陽の最後の光がその表面で踊っている。光の破片が水面を駆け巡り、まるで器自体が生きているようだ。 水面は鏡のように澄み渡り、霧の白と空の青を映しながら、どこか別の世界と繋がっているかのような気配を漂わせている。その奥底で何かが眠り、あるいは目を覚まそうとしている――そんな錯覚を覚えた。 風が頬をかすめ、器の水面にかすかな細波を生む。その小さな動き一つ一つが過去の声となり、私に何かを語りかけている。この水面の鼓動を感じ取らなければならない。 シオンほどではないにしても、私にもできることがあるはずだ。リノアはそう信じていた。シオンが命をかけて大切にしたこの村と自然を守りたい。その純粋な思いだけが、今の彼女を支えている。 村人たちのざわめきが耳に届く。年寄りたちの呟き、囁き合う声……、村人たちの視線が私に注がれている。 村人たちは、本当にシオンの代わりを務めることができるのかと思いながら、私を見ているのだ。重い視線が肩にのしかかる。 しかし、その喧騒は、どこか遠くで鳴っているように感じられた。まるで現実から切り離され、リノアだけが異なる次元に取り残されたかのように。「守れ、
「俺には関係ねえよ」 そう言い切るカイルの声は低く、わずかに硬さを帯びていた。「シオンは妙なことに首を突っ込んでたんだ。自然がどうとか、種子がどうとかな」 言葉を切り、炉を見つめるカイル。その炎の揺らぎにリノアの不信感が重なった。「確かにあいつが死ぬ前、森で誰かと会ってたって話は聞いたよ」「誰と? 何をしてたの?」 問い詰めるリノアの声にカイルは目を細め、短く首を振った。「森の奥で何かを企んでる奴らだ」 カイルはそう口にすると、視線を外し、再び火をかき混ぜ始めた。「シオンが何か渡したか、奪われたか、俺は詳しくは知らねぇ」 リノアの胸に冷たく鋭いものが突き刺さる。しかし彼女は更に一歩踏み込んだ。「狙っているものって、『龍の涙』じゃない?」 その名を口にした瞬間、カイルの目が驚きの色に揺れた。炉の火をかき混ぜる手に力が込められ、硬く握りしめられた鉄棒が微かに軋む音を立てた。 飛び散る火花が暗闇を切り裂き、一瞬だけリノアの顔を浮かび上がらせた。 その沈黙は重く、鋭利な刃物のように二人の間に降り立ち、言葉以上に深い意味を宿した。「お前、何を言ってるんだ? 『龍の涙』って儀式に使われる種子だろ。あんなものが何だって言うんだ? そんな大層なもんじゃねえだろ」 カイルはため息をつき、炉の近くで金槌を手に取り、その柄を握りしめた。カイルの指が強く食い込み、木の柄がわずかに軋む音を立てた。 カイルがリノアを冷たい目で見つめる。 リノアはさらに問いただそうとしたが、カイルが先に口を開いた。「シオンがそれに絡んだなら、自業自得だろ」「自業自得じゃない! シオンは村を守ろうとしたんだよ!」 リノアの声が鋭く響き渡る。 カイルは目を伏せ、金槌を静かに炉の横に置き、落ち着き払った声で言った。「お前、深入りすんなよ。シオンみたいになりたくなければな」 その言葉にリノアは息を呑んだ。カイルの目は冷たく、警告の色が濃い。リノアは枯れた葉を籠に戻し、後ずさった。「ありがとう、カイル。気をつけるよ」 リノアは短く答え、鍛冶屋を後にした。夜風が鋭く吹き抜け、彼女の髪を揺らす。暗い空に散らばる星々が、どこか遠くから静かに見守っているようだった。 村の灯りが遠くに見える頃、リノアは足を止め、森の方向を見た。木々が黒い影となって揺れ、風がざわめいている。 冷
リノアはエレナの家を出て村の広場へ向かった。夜が深まり、星が空に散らばっている。冷たい風がリノアの髪を揺らす。 静けさに包まれた村の広場が目の前に広がっている。鍛冶屋の炉から漏れる赤々とした光が闇を押し返し、金属を叩く鋭い音が響き渡る。火花が飛び散り、暗い夜空の下で命を持つかのように一瞬輝いた。 炉のそばで汗だくになりながら鉄を叩いているカイル。その腕には力が宿り、額には熱気が染み込んでいる。彼の動きには迷いがない。炉の炎が彼の輪郭を鮮やかに映し出していた。 リノアは足を止め、カイルの姿を見つめた。炉の熱気が顔に当たり、心臓が速く鼓動する。 カイルはただの鍛冶屋ではない。村の外部との交易を仕切る男であり、時にその取引に疑念を抱かせる存在でもあった。 リノアの胸にカイルに対する不信の影が忍び寄る。村の伝統や自然を軽視するカイルの姿はシオンの信念とは真逆のものだ。 それでも真実を追う決意がリノアの背中を押す。カイルと向き合わなければならない。たとえそれが危険を伴うものだとしても。「カイル、今いい?」 リノアは鍛冶屋の入り口で声を掛けた。夜の闇に溶け込むようなその声に、鍛冶場の音が一瞬静まる。 カイルがゆっくりと顔を上げた。炉の赤い光が彼の顔を照らし、汗が額から滴り落ちている。重たそうな手を鉄槌から離し、その鋭い目がリノアをとらえた。「お前か、リノア。こんな時間に珍しいな。何か用か?」 カイルの声は穏やかだが、どこか探るような響きがあった。 リノアは一瞬、躊躇したが、リノアは籠から枯れた葉を取り出し、カイルに差し出した。「これ、森で見つけたの。最近、草が乾いてて、木も弱ってる。シオンの死と関係あるんじゃないかって思って」 リノアの声はかすかに震えていたが、その目には強い意思が宿っている。 カイルは葉を受け取り、指で軽く揉んで感触を確かめた。「確かに変だな。乾いて脆い。だが、シオンの死と何の関係があるんだ? あいつは落石で死んだって話だろ」 リノアは息をのみ、目を細めてカイルを見つめた。「本当にそう思う? シオンは自然のことを調べていた。誰かに邪魔されたんじゃないかな」 カイルは炉に視線を戻すと、無言のまま鉄を叩き始めた。平静を装っているが、リノアはカイルの目が一瞬、鋭くなったのを見逃さなかった。 金属を打つ音が暗い夜空に響き、火
リノアはエレナの顔を見つめ、彼女が何か重要なことを知っているのではないかと感じた。シオンの死を悼むだけではない、何か深い確信がエレナの瞳の奥に隠れているように見えたのだ。 エレナは目を伏せ、静かに頷いた。「そうね。私も龍の涙を守ろうとして亡くなったんだと思う。事故にしては不自然だったし。シオンの身体は見つかったけど、落石の跡が少なくて……。誰かが証拠を隠滅したのだと思う」 やはりそうだったのか。エレナも、シオンの死が誰かの手によるものだと疑っていたのだ。今までのエレナの素振りからは、その真意を感じ取ることはできなかった。事を荒げたくなかったのかもしれない。「龍の涙を手にしようとしている人たちって、エレナ、誰のことだか分かる?」 エレナは一度首を振り、考え込むような表情を見せたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。「最近、森の近くで怪しい影を見たっていう噂があった。カイルなら何か知っているかも。彼、外部の商人たちと取引することが多いから」「カイル……」 カイルの印象はあまり良くはない。カイルは自然保護や村の伝統を重んじるどころか、それらを軽んじるところがある。 村の外から持ち込まれる品々を仕入れるために、森の薬草や木材を惜しげもなく切り崩して利益に変えている。そのような姿を何度も目にしてきた。 シオンのように森を愛し、その声を聞こうとする気持ちなど、カイルは持ち合わせてはいない。 リノアの胸にカイルへの不信感が冷たく沈んだ。 それでも、怖がっているわけにはいかない。「私、シオンの遺志を継ぐと決めたの。自然を守るって」 リノアはエレナを見据えて言った。「シオンがリノアを信じていた理由が分かるよ。リノア、カイルに会うの?」 エレナは目を細め、静かに微笑んだ。 エレナの瞳の奥に宿る真剣さが、シオンの死を悼む悲しみと、リノアへの信頼を映し出している。リノアの胸の奥で何かが熱くなった。「リノア、気をつけてね。カイルはシオンの死に直接絡んでいないと思うけど、何らかの形で関わっている可能性ならあるから」 エレナは心配そうにリノアを見つめた。「私も協力するから心配しないで」 エレナの手がリノアの肩にそっと置かれる。その温もりがリノアの心に染み渡った。 リノアは慌てて目を瞬かせて、こぼれ落ちそうになった涙を誤魔化した。 一人で
リノアは村の入り口に立ち、エレナの家へと向かった。 村の広場に差し掛かった時、鍛冶屋のカイルが炉を叩く音が響き、女たちが井戸端で洗濯物を干しているのが見えた。 普段ならリノアも挨拶を交わすところだが、今日は足早に通り過ぎた。頭の中はシオンのノートと龍の涙で埋め尽くされている。 エレナなら何か知っているはずだ。彼女はシオンの恋人であり、シオンの研究を手伝っていたのだから。 エレナの家に着いたリノアは扉を軽く叩いた。中から物音が聞こえ、エレナの声が返ってくる。 リノアは扉を開け、家の中へ入った。薬草の匂いが漂い、机の上にはシオンの研究資料やノート、乾燥した植物類が散らばっている。 エレナは薬草をすり潰しながらこちらを見た。「リノア、森はどうだった?」 エレナの落ち着き払った声を聞き、リノアは一瞬、戸惑い目を伏せた。だが、すぐに籠を床に置き、木箱とスカーフを取り出した。「エレナ、これを見て。シオンのものだよ」 エレナの手が止まり、彼女は立ち上がってリノアに近づいた。スカーフの血の染みを見た瞬間、エレナの目が鋭くなった。「血? どこで拾ったの?」「森の北側。シオンの焚き火跡があったの。そこに木箱もあって、中にこれが入ってた」 リノアは種子を差し出した。エレナはそれを手に取り、目を細めて観察した。「これ、儀式の種子と違うものだね。熱いし、光ってる。シオンが言ってたのは、これのことだったのか……」「シオンが何て言ってたの?」 リノアの声色が鋭く変わった。 エレナは種子を机に置き、目を閉じて黙り込んだ。彼女の手が微かに震えている。シオンの記憶が蘇ったのだろう。エレナの心情を察して待っていると、やがてエレナの唇が小さく動いた。「彼は『龍の涙』に何か隠された力があるのではないかと疑ってた。私には詳しく教えてくれなかったけど、とにかく危険だって警告してた」「うん。それは、この紙にも書いてあった。『誤れば破壊を招く』って。シオンはこれを守ろうとして亡くなったんじゃないかな」 リノアはそう言って、紙をエレナに手渡した。 エレナは紙をそっと受け取り、その上に刻まれたシオンの掠れた文字に目を落とした。 その瞬間、エレナの表情が硬直し、沈黙がその場を包んだ。紙を握る指先に微かな力がこもり、心の奥底で何かが揺れ動いているようだった。 部屋の中を満た
リノアは木箱とスカーフを手に空き地を後にした。木々の隙間から漏れる夕陽が木箱に淡い光を投げかけ、表面に刻まれた細かな模様を浮かび上がらせる。それはまるで誰かが忘れ去った秘密の鍵のように見えた。 森の小径を戻る足取りは重く、頭の中はシオンの言葉でいっぱいだった。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか」 昨日、薬草採取で森を歩いたときの異変……。森の水が減り、草が乾いて萎れていた。あの不自然な静けさ──鳥のさえずりさえ途絶え、森が息を潜めているようだった。シオンの文字に込められていた焦りは、そこから来ているのかもしれない。 幼い日に母が姿を消し、そして今、シオンが亡くなった。私はついに天涯孤独の身となってしまった。 森の奥で母が私に微笑みかけた、あの優しい笑顔。そして木漏れ陽の中、手を差し伸べてくれた温もりが今も胸の奥に焼きついている。母の声が遠くから聞こえるようだ。「リノア、大丈夫だよ」と。 シオンはいつも森で動植物を観察していた。陽が沈むまで土に触れ、葉の形をなぞりながら静かに微笑み、一つ一つ丁寧にスケッチを描いていたシオン。 村のために何かをしようと夜遅くまで灯りの下で目を輝かせていた。疲れも見せずにノートに想いを刻んでいたあの姿が思い起こされる。「シオン……。何が起こってるの?」 自然の異変とリノアの断片的な記憶が糸を手繰るように絡み合う。リノアの呟きは風に攫われ、森の奥へと消えた。 シオンの意図は、まだ掴めない。だが、この種子がただの物ではないことだけは確かだ。 私にはシオンほどの知識はない。それでも、私にも何かできることがあるのではないか。シオンが遺した言葉。そして龍の涙──それらに込められた想いを解き明かさなければならない。 夕陽が木々を血のように赤く染め、霧が徐々に薄れていく。葉の変色が一層目立ち、乾燥した草がその光景をさらに際立たせる。 やはり森は弱っている。 エレナに会おう。シオンの研究ノートを読めば、真相に辿り着く手がかりが見つかるかもしれない。 村の外れに近づく頃、夕陽が地平線に沈みかけ、茜色の光が森の輪郭を柔らかく縁取っていた。遠くで村の灯りが揺らめき、子供たちの笑い声が風に乗って届く。それは平和な響きだった。しかしリノアの胸には別の音が鳴り響いていた。